宮沢りえさんと言えば、1984年11歳から芸能活動を始め、1987年のCM「三井のリハウス」で注目を集めて以来芸能界で活躍し続けてる大女優さん!
そのそばでずっと一緒にいたのが「りえママ」こと、お母さんの光子さんです。
プロデュースとマネージメントを担い、一卵性親子とも言われたほど宮沢りえさんのそばにいた光子さん。その姿は、度々メディアでも報じられました。
今回は、母の光子さんの毒親、ステージママぶりことなどを含め、なぜこうなってしまったのかも紹介していきますので是非ご覧ください!
Contents
宮沢りえの母親・光子の毒親・ステージママぶりが常軌を逸している
引用:Twitter
宮沢りえさんと言えば、数々のドラマや映画に出演し、活躍しています。ししてそのそばにいて、りえさんを支えてきたのが光子さん、お母さんです!
ただ、陰でということはなく前に前にと出ていたそうです。
そんなお母さんの見た人は「毒親」「ステージママ」と常軌を逸した光子さんを遠くからみていました。
メリー
ここではそのようなエピソードをいくつか紹介します!
事務所を退社させる
引用:Twitter
クロ
宮沢りえさんがブレイクすると、光子さんはすぐに独断で所属事務所を退所させます。
そして「エム・ツー企画」という事務所をたちが上げました。
たいていは事務所からの圧力がかかり、芸能界でこの先やっていくのは難しくなりますよね。
しかし、ここで光子さんは男勝りで臆することなく、あちこちに営業をかけ始めました。
もちろん、宮沢りえさんのマネージャーも光子さんが担います。
メリー
ふんどしカレンダーを作る
出典:tenki.jp
宮沢りえさんのことを語る時、外せないのが「ふんどしカレンダー」ではないでしょうか。
もうすごく話題になり、人気も急上昇!
今確認したところ、「メルカリ」というアプリで少し出回っているようですね。
クロ
女の子がふんどしを履いてカレンダーにしてしまう。光子さんの常軌を逸したパワーを感じられますね。
ヌー〇写真を提案
宮沢りえさんは18歳の時にヘアヌー〇写真集「Santa Fe」(サンタフェ)を出版しています。
この写真集、150万部のベストセラーになりました。持っている方もいるのではないでしょうか?
ヌー〇写真集という事も、また宮沢りえさんが18歳ということでマスコミからかなり非難され、憶測が飛び交いました。
これは光子さんの作戦!剛腕ぶりは大成功です。
ただ、〇ードになることは撮影前には知らさせておらず、光子さんからその場で説得されたそうです。
まだ18歳の女の子。
「若い時の美しさは特別な物。20歳を過ぎればりえも太るかもしれない。私のように」と光子さんは言ったそうです。
この言葉はご自身の経験から来ているようです。それでも、親が自ら提案するというのはなかなかないでしょう。
やはり行き過ぎた母親の行動のように感じます。
メリー
宮沢りえのヌー〇写真でビートたけしが批判
ビートたけしさんと宮沢りえさん、何度もCMや映画で共演をしています。
また、宮沢りえさんが歌った曲「心から好き」という曲の作曲をビートたけしさんが作りました。
驚いたのですが、実はこれも母、光子さんの戦略だったようです。
クロ
年齢も離れているし、意外な組み合わせだったために世間も光子さんが仕掛けたのではないかなと思ったようです。
光子さんは本気で仕掛けていたことは、自身のエッセイで語っていた部分でも分かります。
引用:Twitter
光子さんは「早く肉◯関係をもて!」と二人をせかしたそうです。
また最後には「二人でさっさとすませてしまえばいいのにと思っている」と言い放ったのだとか。
これだけでもかなり問題発言でしよね。それでなくても、ふんどしカレンダーにヌー〇写真集。
ビートたけしさんは「娘をヌー〇にさせないのが普通の親なのに」と話していたそうです。
こうした奇抜な話題を次々出し、マネージャーもこなす。そんな光子さんの才能もまた注目されたのです。
メリー
ビートたけしに枕〇業を強制させる
1992年、即席ラーメン「エースコック スーパーカップ」のCMでビートたけしさんと宮沢りえさんが共演をし、海外ロケだったためホテルに泊まることになりました。
もちろん、2人の部屋は別々です。おそらく、宮沢りえさんは母親の光子さんと一緒の部屋だったのでしょう。
その日の深夜、突然ビートたけしさんの部屋に宮沢りえさんが現れたのです。
ビートたけしさんが驚きながら話を聞いてみると「ママに言われてきた」と宮沢りえさんは言いました。
まさに、これこそがビートたけしさんに枕〇業をしたことの証明にもなるのではないでしょうか。
そんな宮沢りえさんを傷つけることがないよう、そっと「早く帰って寝なさい」と帰したといいます。
ビートたけしさんはとても驚いたのではないでしょうか。
クロ
中村勘九郎にも強制させる
ビートたけしさんの次に光子さんが決めた相手は歌舞伎役者の中村勘三郎さんです。「当時は勘九郎」さんでした。
しかし中村勘九郎はご結婚しているため、不倫という事になります。この不倫騒動はまたも世間をにぎわせました。
更に驚いたことに宮沢りえさんは自〇未遂をしています。
引用:Twitter
この時に中村勘九郎さんが一緒にいたことが報道されると一気に話題のトップに躍り出ました。
中村勘九郎さんは会見を開き「不倫もしていないし、私が原因で宮沢りえさんが自殺未遂をしたわけではない」このように発言されました。
メリー
この騒ぎは予想外でしょうが、中村勘九郎さんとの交際で「女性としてのプラスになる」と光子さんが裏で動いていたとか。
実はこれは、マスコミが「りえママ(光子さん)の戦略だ」と報道していました。
こうして業界の大物を見つけては話題作りのために宮沢りえさんと交際をさせていったのです。
ですが、セッ〇スを進めるような発言をしたりするのは話題作りにしてはあまりにも過激すぎるのではないでしょうか。
むしろ、何か強い思いがあったのではないか。そしてこの行動こそが毒親行動なのかもしれません。
メリー
宮沢りえの恋愛にも毒親ぶりを発揮
引用:文春オンライン
光子さんはりえさんが一流の男性と付き合うことにこだわっていました。
そのため、宮沢りえさんの異性関係までコントロールをしていたのです。
「一流の男性と付き合ってこそ、一流の女性になれる」
このことが光子さんの頭の中を占めていたのでしょう。
実際、宮沢りえさんが自殺未遂騒動をおこしたころに「ハーフモデル」とひそかに交際をしていたのです。
それを知った光子さんの怒りは容易に想像できるでしょう。
まさに「烈火のごとく叱り飛ばし、平手打ちをした」という話もあります。
クロ
光子さんは宮沢りえさんが選んだ相手との恋愛を許すことはなく、自分が選んだ人であればどんな男性でも構わないというようなこだわりをもっていました。
こうして考えてみると、光子さんのコントロールからのがれるように自殺未遂をしてしまったのかもしれません。
このように、芸能界関係者でなくても多くの人が光子さんのことを知っていました。
こうなると、スキャンダルに巻き込まれたくないと男性が逃げていくのも当然ではないでしょうか。
クロ
光子のせいで恋人や貴乃花と破局
引用:日刊ゲンダイ
「正規の婚約」ともいわれた宮沢りえさんと貴乃花さんとの婚約。しかし、婚約をしてたったの2か月後に婚約解消を発表。
いったい何があったのでしょうか。
じつはこれも光子さんの戦略の一つでした。
しかし、光子さんの思いとは別に、誤算が生じてしまったのです。それが、当人同士に恋愛感情がうまれてしまったことです。
光子さんはただ、いつものように当時有名力士であり、将来有望であろう貴乃花と付き合うことで宮沢りえさんを売り出したかったのでしょう。
そして婚約発表をしたことでいろいろな動きが出始めます。
当然のことだと思いますが、力士と結婚をするというのは、仕事を辞めて女将になるということです。
もちろん光子さんはこれを黙ってみているわけがありません。母親同士の話し合いが多くなされました。
そして1992年、婚約発表をしたわずか2か月後「人生最高のパートナーになれなかった」とコメントと共に婚約解消となりました。
その後、宮沢りえさんと光子さんは世間の目から逃げるようにアメリカへわたりました。。。
光子の反対を押し切り実業家と結婚するも離婚
宮沢りえさんは妊娠6カ月であることを、所属事務所から2009年2月13日、FAXで発表しました。
相手は元プロサーファ―、ハワイ在住の40代で実業家の中津ひろゆきさんです。
そして妊娠だけでなく、結婚についても発表をしています。
妊娠騒動をしった光子さんはパリに滞在していましたがすぐに日本へ帰国。
もちろん、結婚には大反対したそうですが、宮沢りえさんは光子さんの反対を押し切り結婚、出産をしました。
もしかするとこれは宮沢りえさんが初めて自分自身の道を自ら開き、歩き始めた第一歩となったのかもしれません。
しかしそれから3年ほどたった2012年5月8日。離婚することが一部のメディアから報道されます。
離婚協議を終え、2016年3月18日。正式に離婚が発表されました。
クロ
光子が他界後に森田剛とゴールイン
その後、2018年3月16日。元V6の森田剛さんとの結婚報告をします。
この時に、光子さんは既に他界しています。
2016年の「ビニールの城」という舞台で共演をしたことがきっかけとなり、宮沢りえさんと森田剛さんは付き合うことになりました。
妊娠はなかったものの、今は元旦那である中津ひろゆきさんとの子供と森田さんの3人で暮らしています。
そして2021年11月2日。
森田さんはジャニーズ事務所を退所し、その翌日に宮沢りえさんと新事務所となる「MOSS」を設立。
12月1日にTwitterとYouTubeで開設しました。
メリー
光子の死因は肝腫瘍!宮沢りえが「壮絶だった」と語る
引用:スポニチ
光子さんは2014年9月23日、肝腫瘍(かんしゅよう)で亡くなりました。65歳でした。
この肝腫瘍とは肝臓のガンになります。
沈黙の臓器と言われる肝臓。なかなか発見されないものです。偶然、他の肝臓の病気を検査した時に発見されることが多いそうです。
光子さんは以前から「肝腫瘍」の診断を受けていたそうですが、本人の意思により自宅での治療となりました。
もう、長くないとわかっていたのかもしれませんね。
宮沢りえさんはずっと光子さんを支え続けましたが、光子さんはついに帰らぬ人となりました。
宮沢りえさんはこのようなコメントを出しています。
「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います。 宮沢りえ」
引用:産経新聞
また、テレビ番組「チマタの噺」に出演した時には「息を引き取る瞬間も一緒に居られた。壮絶ではあったが、命の限りがあった母をみて、誠実さをかいてはいけない、凄いモデルがいた」と語っています。
メリー
幼少期から親子二人で芸能界に飛び込み、光子さんと宮沢りえさんは歩いてきました。
不自然な親子関係は長く続くことはなかったものの、宮沢りえさんは光子さんのことを悪く言うことは決してありませんでした。
しかし、宮沢りえさんの母である光子さんは「毒親」「共依存」「大物芸能人との交際の強要」など多くの憶測と噂がありましたね。
実際はどのような人だったのでしょうか。
宮沢りえさんは「私のために頑張るというスタンス」だったと述べています。
そして、やりたくないという弱音を吐くこともなく、親子共々頑張ったのでしょう。
メリー
光子はタバコとお酒が大好きで家庭には向かない女性だった
光子さんが小さい頃育った環境は「女は家庭に入るものだ」という父親の考えによりやりたいことをすることができませんでした。
好きだった「バレエ」に「水泳」。才能も発揮し、これからだった時に絶たれてしまったのです。
そんな環境が嫌だったのか高校を卒業後、光子さんは家によりつかなくなり、ホステスとして六本木で働きはじめます。
とても美人だったという光子さん。その美貌をいかんなく発揮させたのでしょう。
しかし、タバコが大好き。お酒も大好きで飲まれてしまう光子さん。
このころ、宮沢りえさんに構うことなく男性と夜な夜な歩き回ったといいます。
これは、光子さんが悪いわけではなく、育った家庭の影響も実はあったのかもしれません。
クロ
「タバコとお酒が大好きで家庭には向かない女性だった」とホステス時代に知り合ったピアニストである再婚相手が話していました。
そして、この再婚相手に宮沢りえさんが懐かないようにしていたようです。
さらに、光子さんと再婚相手が夜仕事に行っている時、1人残された宮沢りえさんに、近所の人が心配して差し出してくれたおにぎりを食べたら、光子さんは激怒。
このように、光子さんは自分以外の人間が娘に愛情かけたり、娘が自分以外に好意を抱くことも許せなかったようですね。。。
光子の歩んできた人生を見ていく
引用:東スポWeb
光子さんの出身は東京です。
身長は166㎝で日本人女性の平均から見ると少し高い方ですね。兄弟は5人いて、末っ子になります。
父親は喜一という名で戦後、絵描きを目指し商業デザイナーに路線変更をして成功しました。
母親は家を出てしまったため、光子さんは父子家庭で育ちました。
メリー
光子さんの幼少期~20代まで
光子さんは小さい頃から「バレエ」や「水泳」が好きでめきめきと実力をつけていましたが、どちらもやめさせられてしましました。
そのころから、父親に反発心があったのかもしれません。
父に反発し、高校卒業後は家に帰らず六本木でホステスとして活動を始めましたことはお話ししました。
そして六本木でホステスをしていた時、宮沢りえさんの父になるオランダ人に出会いました。
メリー
宮沢りえさんを出産しても光子さんは子育てをすることもなく、オランダ人とともにオランダへ行ってしまいました。
そして、叔母に当たる人が宮沢りえさんを引き取ることに。
結論からいいますと、オランダ人との関係は4カ月ほどと長く続くことなく日本に戻ってきました。
「オランダ人の家族と認められなかった」「オランダでの生活になじめなかった」などいろいろな憶測が飛び交いましたがどれが原因かはわかりません。
もともと光子さんの性格からして忍耐や我慢は難しいとお判りではないでしょうか。
抑圧された状態での異国の生活、なおさら耐えきれずに見切りをつけ、離婚をした可能性もあります。
クロ
光子さん、再婚する
光子さんは日本に帰国後、銀座のクラブで働きました。
そこで先ほど上記で紹介したピアニストの小沢典仁さんに出会い交際をし、再婚に至ります。
小沢さんは宮沢りえさんにとっての義父となります。
そして光子さん、小沢さん、りえさんと3人の生活が始まりました。しかし、この3人の生活はながくは続きません。
メリー
1977年、光子さんとピアニストの小沢典仁さんとの間に子供が出来宮沢りえさんに弟ができます。「後藤聡(仮名)」とネット上では呼ばれています。
宮沢りえさんも弟の誕生をとても喜びましたが、光子さんは翌年に小沢典仁さんと離婚、また宮沢りえさんと二人の生活になりました。
弟が宮沢りえさんという姉がいることをしったのは20歳になったときだったとのこと。
弟さんは宮沢りえさんと会おうとしたようですが、結局会うことはできなかったようです。
クロ
ステージママと言われるように
光子さんは宮沢りえさんを芸能界に入れ、剛腕をふるいプロデュースしていきます。
常識では考えられないようなやり方をし、ブームも作りましたね。
今の宮沢りえさんを作ったのは、やはり厳しくも育て上げた光子さんの力は大きかったのでないでしょうか。
メリー
大病にかかる
その後光子さんは子宮がんという大病にかかります。
手術は無事成功しましたが、その後に飲んだ薬の副作用でホルモンバランスを崩してしまい、別人のようになりました。
それまで働いていたホステスをすることは難しくなり、保険の外交員として練馬で宮沢りえさんと暮らしました。
そして、光子さんは2014年9月23日。肝腫瘍(かんしゅよう)で亡くなりました。65歳でした。
肝腫瘍の診断を光子さんは受けていましたが、本人の意思で自宅で療養します。
宮沢りえさんは母親が亡くなった時、舞台の本番中でしたが気丈に演技を続けたと言います。
クロ
「最期に、生きるということの美しさと、凄まじさと、その価値を教えてもらいました。そういった全ての宝物を胸に、私は、役者として、母として、女として、惜しみなく生きようと思います。 宮沢りえ」
引用:産経新聞
またテレビ番組「チマタの噺」に出演した時には光子さんの壮絶な生き様を学んだと言っていました。
2人はこれまで親子二人三脚で芸能界を渡り歩いてきました。
親密で周りから見たら以上だともいえる関係ではありましたが、宮沢りえさんは光子さんのことを一度も悪く言うことはなかったといいます。
しかし、光子さんと宮沢りえさんの関係を見たとき、「毒親」「共依存」「大物芸能人との交際の強要」など噂はいろいろありました。。。
光子はなぜここまで毒親になってしまったのか
ここ最近聞くようになった「毒親」という言葉。子供の成長に悪影響を及ぼす親のことを言います。
毒親は子供を支配するように育ててしまい、また子供の成長妨げます。
クロ
毒親になる人には、ある要因があるとわかっています。
それが「親自身が毒親に育てられたこと」というのが一番考えられる理由になります。
幼い子供にとって親との関係が子供のすべてになります。
幼少期にどのように育てられたのかにより、子どもは大人になったときに親と同じ行動をします。
光子さんは幼少期、好きだった「バレエ」と「水泳」を続けることができなかったと言いました。
これから伸びていくという時にお父さんがそれを許さなかったのです。
このような圧力をかけられた光子さん。それをそのまま引き継いでしまったのかもしれません。
自分の気持ちとはうらはらに抑え込まれ、コントロールされてしまったことを、娘にも無意識でしてしまったのでしょう。
光子さんは宮沢りえさんを本当に愛し、大事に育てたことは十二分に分かります。
しかし、毒親に育てられた光子さんは、自分以外の人間が娘に愛情をかけたり、娘が自分以外に好意を抱くことも許せなくなるなど、歪んだ愛情になっていきました。
ここで一つ、忘れてはならないことがあります。「毒親」とは遺伝するものではありません。
もちろん、親が毒親であれば影響を受け毒親になりやすいかもしれませんが、遺伝はしないということは忘れないでおいてください。
宮沢りえ自身が毒親を引き継がず娘と接するには
宮沢りえさんは2009年、娘のアロハちゃんを産んでいます。
父親は元プロサーファの中津ひろゆきさんでしたが、離婚してシングルマザーとなりました。自分の母親と同じくシングルマザーになってしまいます。
そんな宮沢りえさん、「自分の娘には絶対寂しいおもいをさせたくない」といつも一緒にいられるように努力していると話します。
りえさんの娘さんへの溺愛はよく知られています。
宮沢りえさんは仕事場にも娘さんを連れていき、稽古を見せることで娘さんにも仕事の厳しさや素晴らしさを実感してもらいたいと思っているといいます。
これを宮沢りえさんは「特権的教育」といっていますが、それは女優の母親を持った娘の特権ということなるでしょう。
メリー
娘を自分と同じ女優にするための英才教育ではないかとも思われます。
実際、宮沢りえさんは女優への英才教育だということを否定していません。
「母が私にしてくれたことは絶対にできないでしょう」
「ただ一つ母と同じことができるとすると、中途半端だったら叱る事」
「女優であっても、なくても、自分の夢に対してエネルギーを注いでほしい」
母子関係の連鎖はよく言われるがステージママも連鎖するのでしょうか。
そして2018年3月16日、元V6の森田剛さんと結婚したことを報告します。
現在はアロハちゃんと森田剛さん、宮沢りえさんの3人で暮らしていると言います。
森田剛さんと結婚してからは、アロハちゃんの運動会に2人で参加しているそうです!
光子さんからの呪縛から解かれた今、末永く幸せに暮らせていることを願いたいです。
メリー
また、子どもがいたためか森田さんは宮沢さんの苗字である「宮沢」に変えました。
12歳のアロハちゃんがいたのもその理由の一つかもしれませんね。
母親が娘に枕営業をさせるという、極めてレアケースを味わうことになった宮沢りえさん。
昔は心に闇を抱えるような経験もし、光子さんに振り回されましたが今こうして第一線で活躍できているのはやはり母である光子さんがいたからではないでしょうか。
家族3人の生活を楽しみつつ、芸能活動も頑張ってもらいたいなと思います。
これからも応援し続けていきます。